私がアレクサンダー・テクニークに惹かれた理由の一つに「意識的選択」というコンセプトがあります。
習慣とは自動的・無意識的反応であり、そこに選択肢がない。
自由とは、自身に気づき、選択肢を見出し、その中から意識的に選択できることである。
このコンセプトは、習慣だけでなく、「常識」という言葉や「こうあるべき」という考えに縛られていた私にとって魅力的なものでした。
ただ、ここで最初に理解すべきことは、自身が置かれた環境・状況に対して選択肢があるわけではないということです。
時には環境や状況を変えていくことが可能なこともあるかもしれませんが、大抵の場合はできません。
むしろ、社会とは常に不自由であり、不公平といった方が適当です。
ですから、不自由だらけの環境・状況にだけ目を向けてしまうと不満しか生まれません。
私たちにできることは、その不自由を前にしながらも(与えられた環境において)、自分自身の行動や在り方について選択肢を見出し、その中から自身で選択するということです。
そして、それを自由と定義づけたということです。
少し話が逸れますが、ミケランジェロのアートに出会った時に、このコンセプトを改めて考えさせられました。それについて紹介したいと思いますので、お付き合いください。
何年か前にローマとフィレンツエを旅した時のことです。
数えきれないアートがある中でミケランジェロの作品は別格で、彼が歴史上に名を残したことに納得がいきました。
私は彼のアートに魅了される一方で、彼の人生について想いをめぐらし、気づくと彼の人生における不自由さに目が向いていました。
彼は宗教家ではありませんでしたし、熱心なキリスト信者でもありませんでした。しかし、彼の作品の中にはキリスト教に関係したものがあり、「彼は本当にそれらを創造したかったんだろうか・・・。望んで創造したのだろうか・・・」という疑問が湧いてきたのです。
また彼は彫刻家としてのこだわりが強かったといいます。しかし、システィーナ礼拝堂の天井画を描くことになった。「絵を描くことは彼の本意ではなかったのではないだろうか・・・。」
そういった不自由さを考えていると、「世界が認める才能の持ち主であっても自由でなかったんだ…。自分となんら変わらないだ…時代や国が違えども同じなんだ…」そんな風に思ったのです。
そんな不自由さに想いをめぐらせていた私ですが、彼の素晴らしい作品を見ると、そういった不自由さに対する考えは払拭されてしまいました。
与えられた題材に枠(制限)があっても、作品と向き合った途端、彼は創作に夢中になり、自身が表現したいものを表現することに没頭していたのではないかと思うのです。そして、そこにあった不自由は消え去り自由を感じていたのではないか、そんな風に思えてならないのです。そうでなければあんな素晴らしい作品はつくれないんじゃないかと。
彼の代表作ではあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂内にあるピエタ。死せるイエスを抱きかかえながら嘆き悲しむ聖母マリアが若すぎる、そんな意見もありますが、私自身は彼は表現したいものを表現した、そんな風に思うと、そこにちょっとした喜びを感じることができました。
もちろん、これらは私の勝手な受け取り方ではありますが、ミケランジェロの作品は改めて「意識的選択」ということを考えるきっかけを与え、私に勇気を与えてくれました。
サン・ピエトロ大聖堂内にあるピエタ
不自由な中に不自由さを見出したり、自由な中に自由を見出すのはある意味当然ですし、自由な中に不自由な自分を見出してしまうこともあります。
しかし、不自由な中に自由を見出せるとき、私たちは自らの力で豊かさを手に入れられるんだろうなと思います。
偉そうなことを書いている私ではありますが、実生活において意識的選択で自由を得ているかというと失敗と挫折の繰り返しです。変えられない環境に執着してしまったり、自身に選択肢を見出せても最終決定ができなかったりしています。
しかしながら、諦めていては豊かさはやってこない。だから、やり続けるしかない。失敗してもまた次、とやっていくしかないんだろうなと思っています。
パンデミックという状況のいま、まさに不自由だらけな世界です。コントロールできない環境に対して、自分にどんな選択肢が見出せるのか、そして何を選択するのか、今一度考えてみたいと思います。
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